知恵袋
西陣まいづる帯

「帯学入門」



第二回 「帯―その産地」

帯と言えば京都の西陣を真中に、東は桐生、西は博多の三産地があります。

桐生西陣博多

 

桐生

桐生は群馬県東部にある産地で、昔から養蚕の盛んな地方で桐生の歴史は今から千二百年余りも前にさかのぼる。室町時代末には、「仁田山絹」という名で知られている。
十八世紀中ごろには高機が移入され、ついで撚糸の八丁車も入るなど先進技術を導入し,周辺農家の農閑期を利用した家内工業として着実に発展した。
現在の桐生は広幅の洋服地が大きい割合を占めているが、和装関係も伝統技術を守り続けている。ことに帯地は丸帯を始め,袋帯やなごや帯や喪服帯、七五三用の祝帯、小袋帯などバラエテイー豊かである。


西陣

西陣は京都市内西北部の通称である。都を焼け野原にした応仁の乱(1467-1477)の時、西軍の将山名宗全の陣のあった大宮付近に乱後、高級織物業が復活したことにその名が始まる。職人たちが戦乱を逃れて移住した堺の町に中国から伝わった金襴・紋沙・モール・緞子などが、やがて相次いで西陣でも織りだされ、さらに桃山時代には豪華好きの豊臣秀吉の保護もあって西陣の機業はめざましく発展した。
江戸時代、幕府の保護のもと高機による紋織を中心に高級織物を一手に握っていたが江戸の後半に入ると大火が相次ぎ、丹後・長浜・桐生などにも技術が伝わり独占も崩れてきた。
明治5年、西陣の織手たちがいち早くヨーロッパに留学、ジャガードやバッタンなどの紋織装置を持ち帰り、近代的絹織業の先鞭を付けたことがその後の日本の高級絹織物業界に確固たる地位を築く基となった。
現在の西陣では、和洋装から室内装飾用生地まであらゆる高級紋織物を生産している。中でも帯地は産地の全生産額の55%以上を占めている。帯地の生産量の約60%が袋帯,16%が喪服帯,10%がなごや帯,7%が袋なごや帯をなっている。


博多

九州第一の都会、福岡市は、古くから大陸との交通の玄関口として発展した博多と黒田五十二万石の城下町福岡とが合併して出来た都市で、市中の那珂川を境に東を博多、西を福岡と言った風習が今も残る。
博多織は約七百五十年前、満田弥三右衛門が宋に渡り、その技術を学んできて織物を家業としたことに始まると言われている。
江戸時代黒田藩は毎年博多織を幕府に献上したところから「博多献上」の名が誕生した。献上柄は、独鈷と花皿を図案化したものに縞柄を組みあわせたものである。
明治三十三年には博多にも紋織機や撚糸機が導入された。現在では、伝統の献上柄を守り継ぐと共に、モダンな柄や複雑な柄の紋織も盛んに行われている。伝統の献上柄は紋を経糸で表わすものだが、紋を緯糸で出す絵緯博多も盛んに行われている。紋八寸のなごや帯が多かったが、最近は袋帯が多くなっている。博多帯の柄付けは全通か六通がほとんどである。